Vol.Winter 2019特集

ノースランドから始まるニュージーランド建国の歴史


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最初の発見

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マオリの探検家クペが、約1000年前にホキアンガを発見したとされています。その後、1642年にアベル・タスマン、1769年12月17日にはキャプテン ジェームズ・クックが初のヨーロッパ人としてダウトレスベイに上陸しました。

パケハと呼ばれるヨーロッパ人の入植地は19世紀初頭にかけて増加し、特に北島では多数の交易所を開設。1814年にサミュエル・マースデンによってキリスト教がニュージーランドに紹介されました。サミュエル・マースデンはチャーチ・ミッショナリー・ソサエティとして伝道所を設立しました。

ニュージーランド最初の首都

オキアト(昔のラッセル)は、現在のラッセルから7キロメートル(4.3mi)南に位置するベイオブアイランズの小さな観光スポットで、コロラレカとして知られていました。1840年から1841年にかけてオキアトは、政府がオークランドに移されるまで、短い期間でしたがニュージーランド初の首都でした。

ワイタンギ条約

ワイタンギ条約は、1840年2月6日に英国の君主と先住民マオリとの間で署名された条約です。これはニュージーランドの歴史と憲法にとって礎となりました。そして、この条約はニュージーランド最初の条約とも言われ、ニュージーランド政府とマオリの人々との関係を形成する上で非常に重要でした。

ジェームズ・バスビーヘンリー&エドワード・ウィリアムズの支援を受け、ウィリアム・ホブソンがワイタンギで条約締結の文書に署名しました。この出来事はワイタンギで毎年祝われるようになり、ニュージーランドの祝日となりました。

重要人物から知るニュージーランド建国の歴史

大陸を発見したものの上陸せず?
アベル・タスマン~Abel Tasman~

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オランダ人探検家のアベル・タスマンは、オランダ東インド会社(※)指示のもと調査に乗り出し、1642年にニュージーランド大陸を発見しました。探索の目的は、太平洋と南アメリカ航路にまだ開拓されていない大陸があるか否かを調べるためでした。

タスマンはオランダ東インド会社の拠点があったジャカルタのバタビアから出発し、西に位置するモーリシャスに到着します。そこから東に向かい、辿り着いたのがヴァン・ディーメンズ・ランド(現在のタスマニア)。そんなタスマンがさらに航海を続けているうちに見つけたのが、ニュージーランドです。タスマン一行は南島に到達しマオリの人々と出合いますが、行き違いがあり、4名の船員がマオリ人によって殺されてしまいました。結果として、ニュージーランドに上陸することなく立ち去ることになったタスマン。このことから、上陸を試みた場所を「マーダーズ・ベイ 殺人者湾(現在のゴールデン・ベイ)」と名付けました。

(※)オランダ東インド会社:1602年に設立された貿易会社で、通称VOC(Verenigde Oost-Indische Compagnie)。世
界初の株式会社としても知られる。

正確な海図を作成
ジェームズ・クック~James Cook~

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アベル・タスマンがニュージーランドの大陸を発見してから約100年後、ヨーロッパ人として初めてマオリ人との交流を成功させただけでなく、エンデーバー号でやって来たジェームズ・クック船長はニュージーランド全土を回り、正確な地図を完成させたことでも有名です。

クック船長の功績により、1770年代にはヨーロッパでもニュージーランドの存在が知られるようになりました。

ニュージーランドの初代総督winter2019_feature3_04.jpg
ウィリアム・ホブソン~William Hobson~

ニュージーランドの歴史を語るうえで重要な人物の一人、ウィリアム・ホブソン。1840年1月に2度目のニュージーランド渡航をしたホブソンの重要な役割の一つは、マオリ人と英国人の間でワイタンギ条約を締結することでした。同年2月の条約締結後にはニュージーランド初代総督に就任し、首都をオークランドに移します。しかし、その2年後に脳卒中により49年という短い生涯の幕を閉じることとなりました。

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ワイン造りにバズビーあり
ジェームズ・バズビー~James Busby~

ウィリアム・ホブソンがワイタンギ条約を作成する際に手助けをしました。彼とその家族が暮らした家は今でもワイタンギ条約グラウンドに残されていて、見学できるようになっています。ニュージーランド建国の歴史でも重要な役割を果たしたバズビーですが、実はブドウ栽培のパイオニアとしても知られています。気候や土壌がワイン造りに適しているため、ワイタンギ周辺でブドウ栽培とワイン醸造を始めました。

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翻訳の納期はたったの一晩
ヘンリー・ウィリアムズ~Henry Williams~

ホブソンとバズビーにより英語で作成されたワイタンギ条約の文章をマオリ語に翻訳したのは、ヘンリーとその息子、エドワードでした。2人に与えられた時間は一晩。ワイタンギ条約締結の際には、マオリ族の首長らに内容を説明するという非常に重要な役割を担っていました。また、ウィリアムズ司祭はその後、条約に参加しなかった首長からのサインを集めるため、北島およびマールボロ・サウンドを旅しました。

初の首都・ラッセルについて

ニュージーランド建国の歴史において、特に重要な役割を果たしている町・ラッセル。初の首都でありながら、なぜ1年と持たなかったのでしょうか。ラッセルの街、そして首都をオークランドに移したことについて、ラッセル・ミュージアムで学芸員をしているKateさんにお話を伺いました。

(取材協力:Russell Museum)

― ラッセルが初の首都となったのはいつでしょうか?

1840年4月です。ワイタンギ・デーが毎年2月6日であることからも分かるように、ワイタンギ条約が2月に締結され、その約2カ月後に当時のオキアトという小さな街が首都になりました。しかし、実際に国の中心としての役割を果たしていたのはたったの5カ月ほどでした。たった数カ月では準備が十分にできなかったようです。

― なぜ首都はオークランド、ウエリントンへと移っていったのでしょうか?

当時、英国では多くの人が新しいビジネスに取り組んでおり、移住できる土地を探していました。そこで目を付けたのがニュージーランドです。マオリの人々も歓迎してくれましたが、「小さな町ラッセルで何をするの?」と言うことになりました。植民地省は、ウェリントンやネルソン、ワンガヌイというような栄えている街の近くに首都を置く必要があると考えたのです。こうして、港町で、東西どちらとも連絡が取りやすい場所であるオークランドに首都が移されました。現在では、ニュージーランド全土から集まりやすい為に北島と南島の中央に位置するウエリントンが首都となっています。

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ワイタンギ条約について

ポイント1:マオリ族・英国間で締結

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英国君主とマオリ族の首長の間でワイタンギ条約が締結されたのは、1840年。オランダ人冒険家アベル・タスマン(Abel Tasman)がニュージーランドの大陸を発見してから、200年ほど後のことでした。先住民のマオリ族と、入植者である英国人。同じ法のもと争いを避けることを目的とし、調印された条約でした。

ポイント2:500人以上の首長が署名

2月6日に締結されたワイタンギ条約には、500人以上にも及ぶマオリ族の首長がサインをしたと言われています。中には女性も含まれていました。また、それぞれの理由から署名しないと決断する首長もいました。なお、英国の代表として会談に参加し初代総督となったウィリアム・ホブソンは、ニュージーランドの歴史における重要人物として名を連ねています。

ポイント3:英語からマオリ語に翻訳

条約を結んだ後になって、英語からマオリ語に翻訳する際に一部解釈の違いにより、翻訳した文章にまちがいが発覚。このことでニュージーランドのマオリ族は英国の統治下に入ることとなってしまいました。共存していくために締結したはずの条約が原因となりさらなる争いを生むことになりました。

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