第16回 英語達人列伝


26 歳と言う若さでダウンタウンのDFS GALLERIAのファッションデパートメントでチームリーダーを務める渡辺真代さんは、ニュージーランドに来たときにはまったく英語を話すことができなかった。彼女は語学留学を決めたとき、一年という限られた期間で英語を習得しようと考え、渡航に当たって勉強に徹する覚悟を決めたという。そして一年後、英語を学ぶことを終え、今度は英語を使って何かを学びたいと思うまでになっていた。
これは多くの英語初心者にとっての最初の目標地点である。ここに到達する前に帰国の途につく者も少なくない。
その後、真代さんはニュージーランドに残り、旅行の専門学校へ進み、そして現在の仕事へとつなげてきた。彼女は短い時間の中でも勉強の内容如何で英語をものにできるという一つの例である。

  

1977年生まれ。北海道出身。高校卒業後、親の反対を押し切って美容師の道に進む。その後、英語が話せるようになりたくなり98年にニュージーランドへ語学留学。語学学校、専門学校と進み、01年にDFS New Zealand Limitedに入社。休日はゴルフとテニスを楽しんでいる他、家庭菜園にも熱を入れている。

当初の英語

ニュージーランドに来たのは98年のことです。目的は英語を勉強することでした。一年間のスチューデントビザを取り、ノースショアの学校に通い始めました。この学校は私の父親が4年程前に、同じようにスチューデントビザで一年間通っていたところでした。
弾むような気持で日本を出発し、オークランドに到着。しかし、その数分後に私はすぐに海外という現実の壁にぶつかりました。確か、税関の付近だったと思いますが、目の前がふと、暗くなりました。見ると上にも横にも大きな男の人が立っています。そして私に向って何か問いかけているのです。しかし、私には何を言っているのかサッパリ聞き取れません。「ナイム、ナイム」という音を辛うじて耳にすることができました。しかし、その意味がわかりません。立ち塞がる大きな男の人、早口で言われる英語、私の後ろには審査の順番を待つ人の列が続いています。どれも何とかしなくてはという思いから半分パニックになっていました。やがて喋ることを諦めた男の人は「NAME」と書いた紙を私に見せました。そうです、こんな簡単な単語さえも聞き取ることができなかったのです。
私は学生の頃に英語が好きだったわけではありません。英語どころか勉強そのものも得意だとは言えませんでした。高校卒業後は専門学校に通い、そして美容師になりました。そんな私が知らないうちに英語に興味を持つようになったのは語学留学する父や海外で暮らす二人の姉達の影響かも知れません。私も英語が話せるようになれば、もっと世界が広がるのでないだろうかと思ったのです。

習得方法

ここに来たのは英語が話せるようになりたいというのがキッカケです。私には一年間しかないという気持ちで渡航してきました。トランクには洋服はほとんど入れずに勉強に必要なものだけを詰め込んできました。文法などの本を20冊くらいと一綴り40枚ほどの単語帳を30束くらいで鞄のスペースのほとんどを占めていました。日本を出発する前日には父が荷物の中からスカートを取り出し「お前は女じゃない、人目につかない格好をしろ。ニュージーランドまでわざわざ行くのだから、黙々と勉強しろ」と言われました。
そして、この国に到着してから2週間。母親から「女の子は笑顔が一番。いつもニコニコしていれば、いいことがあるから」と聞かされて育った私は、まったく英語を話すことができない、相手が何を言っているのか良くわからない状態の中で、学校やホームスティ先では頬の筋肉が痛くなるくらいどんなときでも笑っていました。そして部屋に入ると札幌の家に帰りたい、母が作るコロッケが食べたい、そんなことを考えては毎日泣いていました。
学校では、最初はクラスに出ても意味がないくらい英語を理解していませんでした。それでもなんとか聞き取ろう、なんとか伝えようと思い、文法は無茶苦茶でもとにかく喋るようにしました。それで、まずは間違っていても恥ずかしいという気持がなくなっていきました。
授業中はわからない単語や少しでも気になった文章にアンダーラインを引き、意味を調べて書き込んでいました。一ページに30個くらいは線を引いていました。教科書だけでなく雑誌や新聞からも単語を拾っていました。毎日、新聞を切り張りして同じように線を引きました。そして、それらは単語帳を使っても覚えるようにしていました。これは少しでも空いた時間に覚えることができます。すぐ近くが海岸でしたので、毎日、単語帳を片手に海を散歩していましたし、家では発音をしながらノートに何度も書いていました。結局、持ってきた単語帳はそれですべて使い切りました。

習得方法 (Listening,Speaking)

学校へ通い始めてから2、3ヶ月経って、特にリスニングが苦手だと言うことを感じていました。それでいて、相手が何を言っているのかわからなくても、適当に答えたりもしていました。しかし、それではダメだと言うことに気付かされたことがありました。
ホストマザーと話をしているときのことです。彼女は孫がカゼをひいてドクターのところに行ったということを私に言いました。話の内容をよく理解もしないまま、私は「That's great」と言ってしまいました。ホストマザーも私がまだあまり英語を理解していないことを知っていたので、もう一度ゆっくりと説明をして「こういうときは、そんな風に言ってはダメだ」と教えてくれました。それ以来、私は相手が言っていることがわからないまま答えることを辞めました。そして、言葉をもっとよく聞いてそれで内容を判断する必要があることを強く感じました。
聞き取ることが苦手な私はホームステイ先でも相手の表情が見えない電話を取るのが恐くて仕方がありませんでした。しかし、ある日、家に置いてあるイエローページが目に留まりました。当時、英語で書かれているものは何にでも興味があったので、それを電話帳だとは知らずに手にとりページをめくっていました。そうしているうちに、なんだか電話をかけてみたくなったのです。ちょうど、少し前に授業でまちがい電話のことを習ったので「間違えました」というセンテンスを使ってみようと思ったのです。
恐る恐る受話器を手にして電話帳に書いてある番号を回しました。すると、ほんの一言二言でしたが電話での会話が成立。これはいい練習になると思って、数回電話をかけて間違い電話の会話をしました。最初は「間違えました」という内容でしたが、すぐにその同じセンテンスに飽きてしまい、今度は問い合わせをすることを試みました。例えば花屋さんにかけて、こんなのはあるか、あんなのはあるかと色々聞いてみたりしました。すると日常会話が成立するではありませんか。決して褒められる方法ではないのですが、少しの間、この電話での会話練習を続けていました。それからは積極的に電話にでるようにして、聞き取りの練習をしました。
他にはビデオをよく見ました。ディズニーのアニメでしたが『アナスタシア』は大好きで絶対に100回以上は見たと思います。歌やセリフはほぼ丸暗記していました。聞き取れないところは何度も止めて繰り返し見ていました。

当時の私には、どうしても一年で英語が話せるようにならなければならないというプレッシャーがありました。そのために一日のほとんどの時間を勉強に当てていました。それだけではなく、学校では日本人と話をしないようにしていました。今考えれば「イヤな奴」だと思うのですが、例え相手には「イヤな奴」だと思われても英語を習得したいという気持が強く、日本語を絶対に喋らないと頑固になっていました。また、この一年は橋から向こう、つまりシティへも行かないと決めていました。自分は遊びに来たわけではない、勉強をしに来たのだという覚悟があったからです。

英語で学ぶ

一年が終わる頃にはかなり自信がついていました。学校の先生やホストファミリーとの会話も一応、スムーズにいくようになっていましたし、最後のテストでもそれなりの成績を修めることができました。そして、いよいよ帰国が近づいたときに、もう少しここにいたいし、もっと勉強をしたい、できればこの国に住みたいと思いました。そのためには仕事を得なければなりません。そこで何か資格を取る必要を感じ、もう一年勉強をしようとAISのディプロマコースに進むことにしました。
ここでも、やはり最初の一週間で帰りたくなりました。つい昨日まであった英語に対しての自信がすぐに打ち砕かれたのです。今まで学校の先生や、ホストファミリーの英語に慣れていたのですが、そのクラスは16
、17才の若いキウイばかりで、その会話に全然、ついていけなかったのです。特にポリネシア系の子が話す言葉はまったく聞き取れませんでした。
ただ、今度は社交的になりました。自分の中にこもらず、友達ともなるべく話をするようにしていました。それでも図書館に通うことは辞めませんでしたし、単語も以前と同じように増やしていました。これまでと違うことは、英語そのものを勉強していたわけでなく、英語を使って勉強をしていたことです。このことによって今まで習ってきた英語が一気に伸びたように感じました。

英語での仕事

ディプロマコースが終わりに近づいたとき、いよいよ就職活動をしなければならなくなりました。そうしなければ帰らざるをえなかったからです。その頃は鞄の中にはいつも20枚くらいCVが入れてありました。そして一週間に5、6枚はCVを送っていました。
そして01年の2月から現在の職場であるDFSで働くことが決まりました。セールススタッフとしてスカーフの売り場に立ちました。このときに初めて、多くの日本人がこの国を訪れていることを知りました。そこでは毎月売上の目標を確実に達成することに努めていました。そして、数ヶ月経ったときのことです。上司から他のセクションのチームリーダーになってみないかと言われました。これはステップアップするチャンスでした。私はもう一度CVを出し、改めてチームリーダーのポジションの面接を受け、採用されることになりました。
そしては仕事の内容が大きく変わりました。セールススタッフを引っ張っていく立場になったのです。そのために売り場にある商品の知識も品名、値段、生産地など、これまで以上に必要になってきます。仕入れや、在庫管理といったことも加わってきました。仕入れ関係では一日に.30、40通の電子メールが入ってきますので、読むだけでも一苦労します。マネージャーミーティングに出席することも大きなことでした
中でも私とセールスマネージャーそしてシドニーにいるバイヤーとの3人で月に一回行う、コンフェレンスコールという電話でのミーティングは英語の面では大きなものでした。電話のスピーカーフォンを使って3人で話をするのです。電話で、しかもスピーカーフォンのため、相手の言うことが聞き取りにくかったり、こちらの発音が上手く伝わらなかったりすることもあります。最初はリスニングには細心の注意を払うようにしましたし、発音も気をつけました。また顔が見えない分、発言をするタイミングも戸惑いましたので、前の日に言いたい事をまとめて、コンフェレンスコールのときは十分に自分の意見が言えるようにしていました。最近はサンフランシスコのバイヤーと話すように社内のシステムが変わりました。このときも最初はアメリカ英語の聞き取りに少し苦労しました。
私の現在の目標は更なるステップアップをしたいと思っています。この国へ来てよかったと感じることに、やる気のある人間は年齢や性別に関係なく、上に上がっていくチャンスがあると言うことです。そのためには当然、努力が必要です。私は英語もその一つだと思っています。今は仕事で使うにふさわしい英語を得るということが新しい課題だと思っています。

真代さんの英語上達ポイント

1. 単語帳にわからない単語を書き出し、常に持ち歩く
2. 電話を積極的に取り聞き取りの練習をする
3. セリフを丸暗記するくらい同じビデオを見る
4. 人の目を気にせず、英語だけに取り組む

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カテゴリ:現地企業勤務
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