日本で200店舗以上のバイク販売店を持つレッドバロングループのオークランド店でサービス・レセプショニストとして働く塩島知世。日本からニュージーランドにツーリングに来るライダー達にバイクのレンタルをするという業務のほかに、彼女にはバイクの整備や修理をするワークショップの受付という仕事もあり、毎日が充実しているという。
72年福岡県生まれ。高校を卒業後アメリカのメーン州にあるBeal CollegeのTravel&Tourism科に留学。そこで2年間、寮生活を送る。日本人がほとんどゼロに近い学校だったため英語漬けの生活になる。最初の頃は英語恐怖症で、部屋から出るのも嫌で、トイレも我慢していたが、それを克服して会話力を培ったという。
初めてこのワークショップに来たときの感想は「恐い」でした。それまで私はごく普通のオフィスに勤めていました。しかしオークランドで足を踏み入れた職場はスーツやヒールが不釣合いな、バイクのメンテナンス工場でした。でも、次の就職を探すのも大変なので、少し頑張ってみることにしたのです。
知世がニュージーランドに来たのはワーキングホリデーでオーストラリアへ行ったときに知り合ったキウイの影響だった。
高校を卒業してからアメリカに留学しました。親には語学研修をしたいと言って出てきましたが、本当の理由は違いました。私はボンジョビの大ファンで、彼の歌っている国の言葉を訳なしで理解したいと思い、また彼の国へ実際に行ってみたかったのです。
帰国後は外資系のメーカーで秘書をしました。その時の先輩がすごく英語が上手な人で、それに感化されてもう一度、ちゃんと英語を勉強しようと思ってオーストラリアに行きました。
そこで、バックパッカーにいた3人のキウイと知り合いになったのです。そのキウイ達がすごく明るくて、心が大らかで、一緒に遊んでいてもいつもニコニコしていて、すごくピュアな感じがしました。またニュージーランドの話をいっぱい聞かされていたので、絶対に行こうと思ったのです。
日本に戻ってすぐにニュージーランドに出発する準備をした。そして、次の目的地オークランドに到着したのは97年の9月だった。
来てすぐに、日本食のレストランで働きました。そしてオークランドの新聞ニュージーランドヘラルドに載っていたレッドバロンのレンタルセクション募集の広告を見てCVを送りました。私自身は「バイク乗り」という程ではありませんでした。弟がバイクに乗っていたので、それをたまに借りるくらいでした。しかし、ここの親会社は日本なので名前は知っていましたし、バイクにも乗れるので、気軽に応募したのです。
面接をしたのは社長のトニーでした。「こんにちは」と日本語で言われて少しびっくりしました。それ以外はもちろん英語でした。緊張していたので何を聞かれたかははっきり覚えていません。会社側は、ごく普通に募集をしていたのだと思いますが、日本とのやり取りが多いこの会社にとっては、たまたま私が日本人で、日本語が話せることが、渡りに船だったのでしょう。明日から来て、3日間研修をしてくれということになったのです。
研修第1日目。会社に行くときに知世がこれまでそうしてきたのと同じように、スーツを着て、ヒールを履いて、メイクをして、家を出た。しかし、会社に着いてから知世が連れて行かれたのはワークショップであった。
びっくりしました。私の仕事はショップかオフィスでの事務だと思っていたからです。ところが社長が入っていったのはバイクのメンテナンスをする工場の中でした。そこではバラバラにされたバイクが並ぶ中で、油まみれのツナギを着た無骨そうな男が8人、輪になって朝のミーティングをしていました。なぜか皆、腕を組んでいたのが印象的でした。私はその中に入っていって挨拶をしました。
今になって思い出すと、自分でも滑稽だったと思います。カチカチになっていたので言葉もぎこちなかったと思うのですが、私の服装が一番おかしかったと思います。スーツにヒールが絶対に似合わない場所ですから。でもその時は緊張していたので自分の格好を気にする暇さえありませんでした。
みんなに紹介された後、工場長のマークから早速、コンピューターの扱い方を習いました。ここのコンピューターのシステムは独自のものでした。メカニックの賃金計算から、労働時間に対してどれだけの工賃をチャージして利益はいくらで、という内容で、研修が終わる3日目になっても、さっぱりわかりませんでした。
ワークショップの独特な雰囲気、まったく理解できないコンピューター、そういったのもが重なって、すっかり自信をなくしていた私は、研修が終わったときに工場長に泣いて訴えました。「私にはこの仕事は無理だ、誰か他の人を探した方がいい」と。
すると工場長は「3ヶ月経っても今と同じじゃあ困る。でも、たったの3日で弱音を吐くな。とにかく明日も来い」と言ったのです。
研修が終わり、工場長は社長に言った「知世でいこう」
次の日、知世は迷いながらも出勤していた。
それでもまだ、迷っていました。しかし、次の職場を探すのも大変だろうという簡単な理由で出勤しました。そして、少しずつ、環境を整えようと思いました。まずは自分の服装です。皆が着ているユニフォームとツナギに替えました。
それでコンピューターとの格闘、そして研修が終わってからは電話も取らされるようになりました。ベルが鳴るたびにビクビクしてました。英語が通じない云々ではなく、相手の言っている意味がわからないのです。カワサキのZXRと言われても、それがバイクの名前なのか部品の名前なのか、それさえもわからなかったのです。電話を取るだけ取って、すぐにメカニックに代わっていました。
仕事ではますます落ち込んでいきました。でも周りのメカニック達とは仲良くなっていきました。休憩時間にお菓子を買ってきてくれて「知世いっしょに食べるか」とか声をかけてくれたりして、みんな気を遣ってくれたのです。そうしているうちに少しずつ打ち解けていきました。
仕事を始めてから約3ヶ月。知世のツナギとユニフォーム姿は板についてきた。
とにかく、毎日が勉強でした。私にとってはバイクの名前や部品の名前の一つ一つが全部、初めて聞く単語でした。自分の意識の中では勉強しているつもりはありませんでしたが、覚えないと仕事が進まない。電話一本満足に取れない。修理の受付カード一枚もまともに書けない。一日に20〜30件も修理の電話がかかってくるのです。いつまでも、わかりません、知りませんでは済まされなかったのです。
バイクの名前や部品名だけでなく、修理の内容も覚えてきました。
電話がかかってきて、症状を聞いてメカニックに伝える。その後、実際にお客さんがバイクを持ち込んで来る。診断したメカニックは私に部品の発注を依頼してくる。私はそれをメーカーに発注し、受け取る。それをメカニックに手渡す。そしてメカニックが修理を完了させる。その繰り返しをしていれば自然に頭に叩き込まれていきます。
でもそんなときに結構、失敗をしました。ハンドルの軸にステアリング・ヘッド・ベアリングという部品があるということを覚えた頃に「ステアリング・ダンパーを交換して欲しい」という電話がありました。私はステアリングという言葉で、頭の中にヘッド・ベアリングが浮かんでしまい、そのお客さんに「わかった、ステアリング・ヘッド・ベアリングね」と言ってしまい、その後、そのお客さんと、「いや違う、ステアリング・ダンパーだ。お前はわかっていない」「ちゃんとわかってるから大丈夫」だという押し問答を5分くらい続けて、ついに相手を怒らせてしまい、「メカニックに代われ」と怒鳴られたこともありました。
今では電話で症状を聞けば、故障の原因がわかり、どう対処すればいいか、そのために必要なパーツは何か、修理にかかる時間や金額がほぼわかると言う。
でも、電話では絶対に答えられません。私が電話で相手の言葉だけで判断して、実際にメカニックが判断したものと違っていたら大変なことになりますから。特に値段で食い違いが出ると大きなクレームになります。ただ、毎日、バイクやメカニック達と向かい合っていたら90%以上の確率で当たりますよ。
レッドバロンの代表の電話番号はキウイの女性の受付が対応するショップにつながる。お客さんが電話を工場に回すように頼むと再び女性の、知世の、声が返って来る。そこで相手は言う「あれっ、工場の方に回してって言ったのに」そんな相手に知世は元気に答える「はい、ここはワークショップですよ」
ここは男の職場だということは私自身も感じていました。最初にワークショップに来たとき、違和感がありましたし、話が違うと思いました。それですぐに辞めようと思っていました。しかし、今ではこここそが私の職場だと胸を張って言えます。寂しそうに、壊れたバイクを持ってくるお客さんが、晴れやかな顔になって帰っていくのを見ていると私も嬉しくなります。
でも、一番嬉しいのは仲間から信頼されていると感じたときです。備品の管理で、オイルやグリスなどの消耗品を切らさないように私が在庫をチェックしています。メカニックの仲間から「知世が管理を始めてからは絶対に切らすことがないから仕事がストップしないよ」と言われたときは少しジーンとしてしまいました。
日本では通勤で毎日フラフラになっていました。でも、ここでは仕事でフラフラになっています。気持ちよく疲れるのです。金曜日の5時半過ぎにその週の仕事が終わったとき、みんなで「お疲れさん」と言って乾杯します。そこで今週はこんなことがあった、あんなことがあったとお喋りをして、スッキリとして、笑って家に帰ります。その瞬間が今の私にとって、充実感を味わえるときです。