Vol.192特集

元オールブラックス グレン・オズボーン インタビュー


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 黒いジャージを身にまとい、国のために強くあり続けるニュージーランド代表チーム「オールブラックス」。かつてオールブラックスで最高のプレーを見せたニュージーランドラグビー界の英雄、グレン・オズボーンという人物を知っているでしょうか。
 ラグビーワールドカップに出場し活躍した90年代、そして日本でプレーしていた4年間。勝つことにこだわり続ける「スーパーオズ」が生き抜いてきた熱く誇り高き人生を紹介します。

Glen Osborne(グレン・オズボーン)

 ワンガヌイ出身の46歳(2018年3月現在)。マオリ人で叔父は元オールブラックスのビル・オズボーン。5歳の時にラグビーを始め、ラグビー人生のほとんどをフルバックとして活躍する。10代のうちから頭角を現し、「ニュージーランドコルツ」をはじめ、「ニュージーランドセブンズ」や「ニュージーランドマオリ」などの有名チームにも選出。
 1995~1999年の「オールブラックス」在籍時には二度のラグビーワールドカップ出場選手に抜擢。日本でのプレー経験もあり、4年間「リコーブラックラムズ」に所属。帰国後は引退し、マオリTVの「Bring Your Boots, Oz」でキャスターデビューを果たし、44歳で警察官になるなど、常に新しいことに挑戦している。

フルネーム:Glen Matthew Osborne
生年月日:1971年8月27日
出身地:ワンガヌイ
ポジション:フルバック / ウィング
All Blacksデビュー戦:対カナダ 1995年4月22日
All Blacks最終戦:対イタリア 1999年10月14日
日本所属チーム:リコー

ニュージーランドで生まれ育ち憧れた夢

 ニュージーランド人は、誰でも一度はラグビープレーヤーになることに憧れます。特に僕の場合はビル・オズボーンという叔父がいて、そもそも彼がオールブラックスの選手だったんです。当時は彼がどれだけ有名で人気があるのか知らず、ただの「クールなビル叔父さん」というだけでしたが。
 自分自身、ラグビーを始めたのは5歳の頃です。ニュージーランドで生まれ育ったということと親類にプロのラグビー選手がいたということで、ごく自然な成り行きだったと思っています。
 もちろんまだ小さな子どもなので羊の毛刈りをする人になってみたいと思ったり、農業をすることに憧れたりといろいろな夢を持ちましたが、ラグビー選手になってオールブラックスに入るという目標は常に頭の中にありました。
 本格的にプロの道を歩み出したのは、出身地でもあるワンガヌイの代表チームに所属するようになった高校卒業後のことです。シーズンの最初の半分を「指令塔」といわれることもある「ファーストファイブ(=スタンドオフ)」として試合に出場し、以降ずっとゴールを守りつつ攻撃にも参加する「フルバック」というポジションでプレーしていましたが、当時は体重が76キログラムとラグビー選手としてはかなり小柄だったので、持ち前の素早さを生かした走りとステップの2つが僕の強味でした。

厳しい道のりを超えた先の到達点

 ワンガヌイのチームに所属していた1990~1991年のうち、2年目には国内最大規模の大会「The National Provincial Championship」で優勝しました。「ニュージーランドコルツ」でプレーしていたということもあり、翌年からノースハーバーのクラブに移籍するとすぐに7人制ラグビーのニュージーランド代表チーム「ニュージーランドセブンズ」に抜擢されたんです。
 そのほか、「ニュージーランドマオリ」や「ニュージーランドディビジョナル」、「ニュージーランドアカデミー」に「ニュージーランドA」といった、いわゆるこの国で有名とされるチームにも選ばれ、最高の仲間たちと一緒に戦えたのは幸運としか言いようがありません。
 それから練習に練習を重ね、ついに念願叶って長年憧れていたオールブラックスのトライアルを受けられることになった時はたまらなく嬉しかったです。今はあまり行われていないようですが、1990年代の当時はトレーニングキャンプで見込みのあるプレーヤーが選出され、さらにトライアルでふるいにかけられるというのがオールブラックスへの道だったんです。
 僕もまだ20代でしたから体力なら有り余るほどあったし、自分が落とされるという考えは全くありませんでした。あの頃は自分の体が衰えるなど想像できませんでしたが、今ではつくづく「歳を取ったな」と感じています。

オールブラックスとして生きるということ

 オールブラックスでのデビューは1995年4月22日に行われた対カナダ戦でした。不安や緊張よりも興奮が上回っていて、誰よりも練習や特訓をしているという自信があったので、1995年と1999年のラグビーワールドカップ出場も含め、オールブラックスでプレーしている間は一切プレッシャーを感じたことがありません。それに若かったので「自分には才能がある」と信じ切っていました。ラグビーはタフな競技で骨を折ったり肉離れを起こしたりとけがが付き物ですが、程度によっては痛みにも気が付かないほど。それぐらいの集中力で戦っているんです。
 一度オールブラックスになったら生涯オールブラックスです。だから引退して何年経っても僕はオールブラックスである誇りを忘れないし、ニュージーランド国内どこにいても「オールブラックスのオズボーン」として生きていたい。特に今は地元のワンガヌイに戻って来ているので、あちこちで声をかけられます。
 オールブラックスは基本的に、引退した後に現役の選手と交流することはあまりありません。仲が悪いという意味ではなく、深く関われば本気でやっていただけに口を出したくなるかもしれないし、一緒に試合に出るわけでもない人間に上から指図されるのは本人たちも良い気はしないでしょう。
 特にスポーツというのはラグビーに限らずフィールドの中にいる人間にしか分からない空気や雰囲気もありますから、引退したら彼らのやり方を尊重し、温かく見守るのが僕の仕事です。オールブラックスが今後も世界中で活躍してくれるのを祈っています。

変わりゆく日本のラグビー界

 現役のオールブラックスとして活動していたのは1999年までで、その後は一年間のフランスでの経験を経てニュージーランドに戻り、再びノースハーバーのチームでプレーすることになりました。そう考えると、僕のラグビー人生の原点はノースハーバーなのだと思います。
 強くなりたければ戦うこと、そして上を目指したければ必死に練習しなければならないこと。全国区の代表選手に選ばれる人間がどうあるべきなのかを教えてくれた素晴らしいチームで、オールブラックスの戦友ともいえるウォルター・リトルやフランク・バンスらと出会ったのもここです。
 いろいろな経験をしてきましたが、30歳前後からの4年間は家族で日本に移り住み、日本のトップリーグチームの一つである「リコーブラックラムズ」に所属していました。当時の主将だった田沼さんにはとてもお世話になり、次に日本を訪れる時には久し振りに会いに行ってみるつもりです。
 ニュージーランド人はラグビーと共に育ち、ラグビーと共に生きます。この世に生まれ落ち、やっと歩けるようになったぐらいの年齢ですでにラグビーボールに触り、パス回しをしたり兄弟同士でタックルをして遊ぶ。それが当たり前なのでラグビーに懸ける熱量は世界中のどの国にも負けません。
 ただ日本でも最近では体格の良い才能あるラグビー選手が頭角を現し始め、過去と比べると格段にレベルが上がってきています。日本はニュージーランドとは違ってクラブチームではなく会社としてのチームが多く、例えば「リコー」や「サントリー」、「東芝」などが強い印象です。
 今では大学生レベルのラグビーも人気が高まってきているというような話を聞いたので、日本のラグビー界はまだまだこれから伸びていくことでしょう。

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44歳、警察官になる

 今はワンガヌイに戻り警察官として働いています。実は23歳の時に警察官という職業に憧れていたのですが、ラグビー選手はプロになると他のことができないのでいつかまた挑戦するつもりでその時は諦めたんです。
 若かりし頃の夢を叶えるために警察官の試験を受けたのは44歳の時で、甥には「コロ(マオリ語で"おじいちゃん"の意)なんだから無理だよ」と言われてしまい、余計に闘争心に火が点きました。だからラグビーの現役を退いてからはもう大分経っていましたが、体力試験では若者ばかりが60人いる中、2位という成績を収めてやったんです。
 負けたくないという気持ち以上に、自分もまだやれるということを証明したかった。もちろん、さすがに昔と同じというわけにはいきませんが、この結果には周りも驚いていました。
 大変だったのはここからで、試験を乗り越えて警察学校に入ると勉強漬けの毎日が待っているんです。これは自分には不利でした。何しろ最後に勉強したのは10代の時ですから、周りの若い人たちに比べて感覚を取り戻すのに随分と時間がかかりました。
 少しでも多くの時間を勉強に費やしたかったのと集中したかったのとで、この時期のメディア取材依頼は全て断っていました。オールブラックスでもさほど気にしていなかったプレッシャーというものを人生で初めて感じた時期だったかもしれません。
 それでもラグビー選手時代に学んだ粘り強さと根性でどうにか乗り切り、学校の仲間たちと一緒に警察官になることができたことを誇りに思っています。

ラグビー×人生 やると決めたら妥協は許さない

 ラグビーを引退すると決めた時、コーチをやらないかと声をかけてくれる人はたくさんいました。ありがたいことです。ただ、人生のほとんどをラグビーに費やしてきて、自分には少し休息が必要だと思ったんです。厳しいトレーニングで酷使してきた体もそうですが、心の方にも。
 ラグビーをやるために生きて、ずっと突っ走ってきました。警察官という昔憧れた職業にもつけている。いつかは地元ワンガヌイのクラブで子どもたちを教えたいですが、それは今ではないと思っています。
 なぜならコーチというのは中途半端にできる仕事ではないからです。やるなら50%でも70%でもない、100%の力でラグビーを伝えていかなければならない。それがオールブラックスとして生きた僕の信念であり、最高レベルのラグビープレーヤーはそうあるべきだと思っています。
 2019年にはついに日本でラグビーワールドカップが開催され、大いに盛り上がることでしょう。僕自身、時間に都合をつけて必ず駆け付けるつもりです。応援するのは母国でもあるニュージーランドになると思いますが、日本も最近では特にラグビーに対する情熱が高まってきているのを感じているので、頑張ってほしいと願っています。

 

ラグビーワールドカップ2019 プール表

(情報元:RUGBY WORLD CUP JAPAN日本 2019)

プールA

アイルランド
スコットランド
日本
ヨーロッパ地区1
ヨーロッパ・オセアニア プレーオフ1

プールB

ニュージーランド
南アフリカ
イタリア
アフリカ地区1
敗者復活予選 優勝チーム

プールC

イングランド
フランス
アルゼンチン
米国
トンガ

プールD

オーストラリア
ウェールズ
ジョージア
フィジー
ウルグアイ

カテゴリ:特集
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